RIO DE JANEIRO 1987

 リオのカルナヴァル。約10万人の観衆を収容したマルケス・ヂ・サプカイのパレード会場では、1チーム約5,000人の大型エスコーラ(サンバチーム)が行進する。三晩四日の幻想。それは生きることの喜びを誇示して揺り動く色彩の大河だった。思い思いに着飾った王様や貴婦人の波間を、巨大で絢爛なアレゴリア(山車)が、目の前をゆっくりと動いていく。

 その行進のなかでもひときわ誇らしげな集団がある。バテリアと呼ばれる打楽器隊だ。1年をかけて厳しい練習に耐え、激しい生存競争を勝ち抜いてきた彼らは、その名誉とともに5,000人の集団を躍らせるという重責を背負っている。背筋を正した姿は、500本以上の出刃包丁が鈍い光を放ちながら、勃起しているように見えた。

 その朝、インペラトリスは二時間以上も遅れて登場した。すっかり夜は明けている。亜熱帯の太陽が昇っていて暑い。前日の夕方から大騒ぎを続けた観客にとって、この時間は最も眠い時間だ。私も、殺してくれと思うほど眠ってしまいたかった。それは長い待ち時間を経て登場したインペラトリス4,000人にとっても同じだったに違いない。しかも、「ダルヴァの星」をテーマに掲げていただけに、明るすぎる陽の下の行進は予想外だったと思う。

 今では優勝候補の筆頭にあげられるインペラトリスだが、その頃は貧乏エスコーラで、ファンタジアもアレゴリアも粗末で見劣りがした。しかも、サルゲイロ、ベイジャフロールの豪華絢爛で煌びやかな行進の後だ。しかも2年連続優勝を狙うマンゲイラに挟まれている。明るい陽光の中に、ただ着飾っただけのみすぼらしい幻想が晒されてしまったように見えた。長い待ち時間と高温のせいだろうか、ダンサーが倒れ、担架で救急車に運ばれる人が続出する。

 しかし、その危機をバテリア隊が粉砕した。どのエスコーラのバテリアも凄まじいが、その朝のインペラトリスのバテリアは、サンバの神様がいるとしたら、その魂が乗り移っていたのではないだろうか。突風が吹き、大気が激しく震え、一糸乱れず、鬼神のような演奏がサプカイに放たれた。

 これに奮い立たない人間はいない。それに呼応して4,000人が声を枯らして歌い、拳を突き上げて叫び、誰もが激しくサンバを踊った。

 その時、事件が起こった。プシャドール(歌手)たちがサンバ・エンヘードを歌うことをやめ、「オブリガード、バテリーア!」と叫びだしてしまったのだ。まだヂスフィーレの真っ最中である。全員を牽引し、調和の中心にある歌い手たちが、命であるはずの歌をやめて叫び、リスペクトしてしまうほどバテリアの叩き出すサンバは神々しかった。

 この行為をスタンドの観衆が熱狂を持って支持する。歌うことをやめて絶叫するプシャドールたちに代わって、観客全員が彼らのサンバ・エンヘードを大声で歌って行進を助けたのである。サプカイに10万人の声が響き渡り、会場がうねる。隣を見ると、ブラジル人たちは涙を滝のように流しながら拳を突き上げている。

 4,000人の行進が過ぎて行き、バテリアは隊列の最後尾にまわった。その背中が誇りで輝いている。私はその背中を見送った。訳の分からない感動が私の心臓を貫いた。こんな調和を見たことはない。この場所、この時間、この人たちの祭典に導いてくれたものに感謝し、みんなと一緒に何度も何度も叫んでいました。
OBRIGADO BATERIA!

O SHOW TEM QUE CONTINUAR~あの感動を持ち続けたい

 幸運だったと思いますが、この体験がサンバをやる決定的な動機となりました。それまで、これほど美しい人の調和を見たことがなかったんです。これは単なる遭遇ではありません。なにかによって導かれたとしか言いようのない出来事だったのです。ブラジルから帰国してすぐ、私は友人たちがやっていたSAÚDEに入りました。

 サウーヂは1986年に横浜の歓楽街である野毛の街で生まれたエスコーラ・ヂ・サンバ。20年連続で浅草サンバ・カーニバルに出場し、その他にも野毛大道芸をはじめ、全国のフェスティバルやお祭り、コンサートに出場しています。SAÚDE(サウーヂ)とは祝杯を意味し、世界の文化の交流点である港町「横浜」の気風、大道芸の街である「野毛」の芸能精神、そして交流のあるリオの名門エスコーラ「マンゲイラ」への愛情を胸に生まれたエスコーラです。

 サウーヂの仲間になって20年が過ぎようとしています。この間に、多くの人たちと出会いました。野毛の馬鹿鍋屋のマスター故石井幸雄、乃津のマスター故斉藤春雄は、私たちの精神的支柱でした。現在のタイムの前身であるボチキンのマスター故国安良夫。現在翻訳家として活躍中の国安真奈。ブラジル音楽界のリーダーである中原仁は創始者であり、初代ヂレトール・ダ・バテリアです。中南米音楽の社長であるケペル木村。亡くなったプラサオンゼのヨッチャンからは創立時に楽器を提供してもらうなど多大な応援をしてもらいました。

東洋一のサンビスタである森本たけるは86年の初ヂスフィーレではメガホンで歌いました。ショーロクラブの笹子重治、パゴデイロのNORIOは88、89 年のサンバ・エンヘードの作者。同じくショーロクラブの秋岡欧もヂスフィーレでカヴァキーニョを弾いてくれました。

初代プレジデンチの佐藤祐輔、初代のダンサーを引っ張った佐内由美子。元LATINA編集員のユーミン。ヂレトール・ダ・バテリアを務めてくれた卓ボン、ナイチー、鬼コバこと小林正勝、高梨隆。おスルド様やカモメちゃん。ブラジリダーヂをくれたタンボリンのコータロー、ギターの板さん。強烈なダンサー集団を作ってくれたキシュコ、デカショウ、結婚してブラジルに渡ったチビショウ、チヅル、チャオ、カオリ、ゴボウ、小町。今は名古屋にいる山口、サブ、難波、酒井のマラバリスタの大馬鹿者たち。

サウーヂは東北との結びつきが強く、亡くなった仙台サンバクラブのドン、サラマスこと稲林正、ヘピニキ奏者のフルチーニョ、カヴァキーニョのボン、歌のゆみちゃん、良恵ちゃん他、今でも仙台に限らず、秋田、盛岡、遠刈田、白石のサンビスタたちとお付き合いしています。大阪のカイピ&みどり夫妻、名古屋のウルバナのドン、ゲイリー杉田にも、今まで多くの力を貸してもらいました。

 20年の間に出会った人たちの中からほんの僅かな人たちの名を挙げましたが、みんなブラジルが好きで、サンバを愛し、人生を享楽的に受け止めながらも芸術に真摯な人ばかり。その出会いは驚きと感動の連続でした。その感動の連鎖、継承があって、今のサウーヂがあります。その扉の先にあるもの・・・あなたはそこに導かれているのです。

2007年1月吉日

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