サウーヂの誕生は1986年。
飲み仲間だった初代プレジデンチの佐藤夕佑、田辺卓司、松下洋一郎らが、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ横浜公演の関係者だった中原仁、佐藤由美ら中南米音楽のエキスパートたちと、京急日ノ出町駅近くのジャズ喫茶「YOKOHAMA JAZZ FIRST」で邂逅。
演奏経験も、ダンス経験もない彼らが、“ノリ”で浅草サンバカーニバルへの出場を決め、初練習後の打ち上げで……
「“乾杯”ってブラジルでは何て言うんだ?」
「“サウーヂ”だ!」
「よし、それが俺たちのチーム名だ!」
かくしてサウーヂの歴史は幕を開けました。
1986年~1995年
1986年
- 佐藤夕佑が初代プレジデンチに就任
- 創設メンバーのひとり・中原仁の提案により、同年のマンゲイラのサンバ・ヂ・エンヘードで浅草サンバカーニバル初出場。スピーカーから曲を流し、それに合わせて歌い、借り物の楽器を打ち鳴らした。メンバーは22名
浅草サンバカーニバル
テーマ:“カイミは世界にバイーアとマンゲイラが持つものを誇示する”
結果:チームワーク賞(7位)
1987年
- オリジナルメンバーの國安良夫・真奈夫妻が、野毛にブラジリアンバール「BOTIQUIM」をオープン。同店で出会った「浜幸」のマスター・石井幸雄氏の協力を得て、野毛を中心にした活動を開始
- 仙台サンバクラブとの交流により、パゴーヂに力を入れるようになる
浅草サンバカーニバル
テーマ:“EXALTAÇÃO A MANGUEIRA(マンゲイラ讃歌)”
結果:台東区長賞(4位)
1988年
- 初となるオリジナルのサンバ・ヂ・エンヘード「Cidade Da Paixão(情熱の街)」を制作
浅草サンバカーニバル
テーマ:”情熱の街”
結果:金賞(2位)
1989年
- 「野毛大道芸」に初参加
- 初代プシャドール・森本タケルを讃えたサンバ・ヂ・エンヘードを制作
浅草サンバカーニバル
テーマ:“10点満点の男”
結果:台東区長賞(4位)
1990年
- 初心に返るべく、サウーヂ創設年と同じ曲で浅草サンバカーニバルに出場
浅草サンバカーニバル
テーマ:“カイミは世界にバイーアとマンゲイラが持つものを誇示する”
結果:読売新聞特別賞(4位)
1991年
- バテリアの選抜チーム「EDUAS」が発足。演奏レベルの向上につながる。練習曲でもあった、「É HOJE」(1982年、ウニアン・ダ・イーリャのサンバ・ヂ・エンヘード)のアレンジバージョンで浅草サンバカーニバルに臨んだ
浅草サンバカーニバル
テーマ:“É HOJE”
結果:台東区長賞(4位)
1992年
- 石山和男が2代目プレジデンチに就任
- 仕事でリオに長期滞在していた渡部晋也を頼って多数のメンバーが渡伯、ブラジル化が進んだ
- サンバ・ヂ・エンへードのコンペを初開催
- 浅草サンバカーニバルのスケールアップに取り組み、96人でヂスフィーレ
- 大橋ノボルが恵比寿にマランドロ・プレス社を開設、会報「Verde e Rosa」発刊
浅草サンバカーニバル
テーマ:“聖者は緑の森を目指す”
結果:銀賞(3位)
1993年
- 人員2倍計画を実施。関係各所に協力を仰ぎ、浅草サンバカーニバルで220人のヂスフィーレを実現させる
浅草サンバカーニバル
テーマ:“永遠の宴”
結果:準優勝
1994年
- この時期、ファンタジア制作の技術が格段に向上。夜間パレード最後の年、照明に映える美しい衣装で準優勝を獲得
浅草サンバカーニバル
テーマ:“千夜一夜”
結果:準優勝
1995年
- メンバーが頻繁に通い、パゴーヂを楽しんでいた野毛にある4軒のバール「BOTEQUIM」「浜幸」「タイム」「乃津」と、横浜を讃えるサンバ・ヂ・エンヘードを制作
浅草サンバカーニバル
テーマ:“野毛の波に乗って行こうぜ!” ~それは4つのバールから始まった~
結果:3位